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短編小説 愛縁奇縁

2019.01.26 09:04

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book☆worker
愛縁奇縁


 ① テニスサークル

「あー、やっと見つけたぁ」
 大学の教室に甲高い声が響いた。講義が終わり教室を後にしようとする学生達が一斉に声のする方へと視線をやった。小柄な女子学生が早足で教室の前の席へと向かっていた。女子学生は自分が呼ばれていないことを確認すると、そのまま教室から出ていった。男子学生の中には声の主の可愛さに見とれて立ち止まる者もいた。
 高橋彩花は、そんな男子学生の視線も気にせず、胸の前で小さく手を振りながら、そのまま早足で一番前の席に座る酒井真由の隣に腰を下ろした。
 真由はノートや教科書をトントンと揃え片付けているところだった。
「真由、やっと見つけたよ」彩花は息を切らしながら真由に微笑みかけた。
 高橋彩花と酒井真由は大学に入学してから知り合ったのだが、すぐに仲良くなった。人見知りな真由にしてはめずらしいことで、これは彩花の明るく開放的な真由とは正反対の性格のおかげだろう。

「高橋さん、どうしたの?」真由は教科書とノートを鞄に入れながら、小さく声を発した。
「高橋さんて、そんな他人行儀な呼び方しないで、彩花でいいよ」彩花は頬杖をついて真由に笑顔を向けた。
「ごめんなさい。で、彩花、どうしたの」
「あのね、真由は高校の時、テニス部だったんでしょ。だったら一緒にここの大学のテニスサークルに入らないかなと思って誘いに来たの」彩花はそう言うとテニスサークルの募集用紙を鞄から取りだし真由の眼前に広げた。
 彩花の急な誘いに真由は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、募集用紙を見て高校時代に熱中していたテニスを又やってみたいなと思い、すぐに晴れやかな表情に変わった。
「テニスかぁ、久々にやってみたいな。高橋さ……、あっ、ごめん、彩花も高校の時にテニスやってたの」真由は眼前に広げられた募集用紙を手にとってから訊いた。
「あたしは運動苦手だからね」彩花は肩肘をつきながら口を尖らせた。「でも出会いの場が広がるでしょ。いい男子が見つかるかもしれない」今度は立ち上がり両手を組んで天井を見上げていた。
 彩花はテニスより彼氏探しのためにテニスサークルに入ろうと思ったようだ。
「フフフ、そうね」真由はにこやかな表情で彩花の楽しそうな姿を見上げた。
 真由の方は彼氏探しには、あまり興味は無かったが、高校時代にやっていたテニスを続けるのも悪くないなと思い、彩花の誘いに乗ることにした。
「じゃあ、テニスサークルに入ってみようかな」真由は、めずらしく大きな声で口角を上げた。
「決まりね、じゃあ今から見学に行ってみようよ」彩花は真由の右肘を引っ張った。
「えっ、今から」真由の小さな目が大きく開いた。
「そう、善は急げよ。いこ」
 行動力のある積極的な彩花の提案に真由は断ることなく、二人は、そのままテニスコートへと向かうことにした。
 彩花の調べでは、ここの大学には、いくつかテニスサークルがあるようだが、これから行くサークルが一番人気があり人数も多いようだ。テニス以外のイベントも沢山あり活気があるらしい。活動は毎週火曜日と金曜日で、ちょうど、この日は火曜日だった。
 真由は日差しが少し夏らしくなった空を見上げながら彩花についていった。テニスで汗を流したら気持ちいいだろうなと思い足取りが軽くなっていた。
「着いたよ、ここのサークルがいいかなと思ってるの」
 二人はテニスコートをフェンス越しに覗いた。
「わぁ、みんな楽しそうにテニスやってるね。あたしもやりたくなってきたな」
 真由は久しぶりに見たテニスコートに興奮し、ラケットを振るしぐさを見せた。
「見て見て、あの男子とか、かっこいいよ」ラリーをする男子に向けて指を差した後、すぐに視線はテニスコートのあちこちに飛んでいるようだった。彩花はテニスより男子の品定めに夢中になっていた。確かにかっこいい男子も沢山いたが、真由は自分に魅力がないと思っていたので、男子に近づく勇気はなかった。一重瞼の小さな目、小さく丸い鼻、テニスをやっていたにしては色白でぽっちゃりした体型の自分に興味を持つ男子なんていないと思っていた。高校の頃から男子と話すのは苦手で、男子とプライベートな会話をした記憶は、ほとんどなかった。
 小柄で細身だけど胸が膨らみ色気があり、瞳が綺麗で明るい彩花なら、ここでも男子から人気者になるんだろうなと思った。
 彩花が男子の品定めに夢中になっているのを横で見ていると、真由も好きなタイプの男子を一人だけ見つけた。二重瞼の大きな目と鼻筋の通った顔立ちを見て真由はときめきを覚えた。しかし、真由はそれ以上のことを考えることはしなかった。きっと、この男子も彩花のような可愛い女子が好きなはずだと思った。



 ② 西山洋介

 西山洋介は大学に入学してすぐ、高校時代のサッカー部の先輩からテニスサークルに誘われた。テニスをやったことはなかったが、体を動かすのが好きだった洋介はすぐに入会を決めた。
 先輩からは「可愛い女の子が沢山いるから、すぐに彼女が出来る」と言われたので、それも少しは期待していた。
 
「洋介、母さんから聞いたけどテニスサークルに入ったんだって」洋介の姉がニタニタとした表情で洋介に訊いた。
「母さんは姉ちゃんに何でも話すんだな」洋介は、キッチンに立つ母親を睨みながら面倒くさそうに返した。
 キッチンから「あら、いいじゃない、家族なんだから」と軽い口調が返ってきた。
「姉ちゃんに言うと面倒臭いんだよ」洋介は頬を膨らませた。
「なんで、あたしが面倒臭いのよ」テーブルを叩いてから「彼女でもつくろうと思ってるんでしょうけど、あなたは女の子と話すの苦手だから無理だと思うわ」からかうように言った。
「いや、そんなんじゃないよ。先輩から誘われて始めただけだよ」洋介は頬を膨らませた。
「そんなにムキにならないの。でも、テニスは楽しそうでいいわね」姉は洋介に笑顔を向けた。
「そうなんだ。テニスをはじめてやったけど、やってみると面白いんだよな。思った以上にハードだし、もっと上手くなりたいよ」  
「テニスが上手くなるのも良いけど、姉としては女の子との会話も上達してほしいわ。たまには彼女とか連れてきて紹介してよ、妹みたいに可愛がってあげるからさ」
「姉ちゃんこそ彼氏を連れて来いよ。俺より姉ちゃんの方があせらないとヤバイんじゃない。その男勝りの性格は直した方がいいよ」
 洋介はうっとうしくなって反撃した。姉は舌を出して、その場から退散した。
 洋介は姉の言う通り女子と話すのが苦手で、女子から話しかけられても言葉を詰まらせてばかりだった。それが苦痛で、テニスサークルでも、女子とは話さなくなってしまっていた。先輩が言った「すぐに彼女が出来る」は外れてしまったし、洋介もそれを期待しなくなっていた。
 しかし、テニスサークルの女子達は洋介に憧れを持つものも多く、誰が洋介のハートを射止めるかと競いあっていた。


 ③ アルバイト

 真由と彩花は、サークルの入会手続きを済ませ、来週から参加することに決まった。真由は高校の時のウェアーが今の自分に入るのか心配になった。お腹についてしまった肉をつまんでから、深呼吸してお腹をへこませてみた。
「真由、ドーナツでも食べて帰ろうよ」
 彩花が駅前にあるファーストフード店に目を向けた。真由はお腹の肉が気になったが、ドーナツ一個ぐらいなら大丈夫だろうと、彩花に向かって小さく頷いた。
 店内はこの時間にしては、すいているようで30席ある席の半分は空いていた。彩花は自分の注文をさっさと済ませ、先にテーブルへ向かった。真由はたくさん種類のあるドーナツに悩まされたが、彩花や後ろで待つ客が気になり、結局、店長おすすめと書いてあった新発売のドーナツを選んだ。

「テニスサークル楽しみだね」彩花が一つ目のドーナツを半分に割って真由の眼前に持っていき、ニッコリと笑みを浮かべた。
「うん、楽しみだね」真由も笑みを浮かべ半分に割れたドーナツを受け取った。
「それ、あたしのお気に入りのドーナツ。美味しいから」
「ありがとう。あたしのも半分あげようか」真由もドーナツを半分に割ろうとした。
「いいよ、それより真由はお気に入りの男子はいたの」
 彩花が質問してきて、一人の男子の顔が浮かんだが
「うーん、わかんない」と視線をそらしてから返事した。
「そうなんだ、かっこいい男子、たくさんいたよ。10人くらい」
 彩花は黒目の大きい瞳を見開き、両手を広げて真由に向けた。
 真由は、その10人に真由が気になった男子が入っていたのだろうかと少しだけ思った。
「ところで真由はバイトしてるの」彩花が二つ目のドーナツを頬張りながら聞いてきた。
「バイトは、やったことないの、彩花は?」
「ホテルのレストランでバイトしてるよ。今日もこれから行くんだけどね」
「彩花はすごいね、行動力があって羨ましい」
「真由もいろいろ挑戦したみたら。積極的に生きないともったいないし、大学生活を楽しまなきゃ損だよ」
 彩花は二つ目のドーナツを全て口に放りこんでから言った。
「あたしもバイトやってみたいな」
「うん、やった方が良いよ。善は急げ、思い立ったが吉日よ」
 彩花は、そう言って真由の後ろの壁に貼ってあるポスターに視線をやった。真由も後ろを振り返りポスターを見た。
《アルバイト募集中!初心者歓迎!親切丁寧に教えます!》
「今から面接、申し込んでみたら」
 彩花の言葉とポスターの初心者歓迎の文字を見て、真由は、あたしでも大丈夫だ、アルバイトをやってみようと思った。


 ④ 恋心


 真由の大学生活はテニスサークルに入ったことで一段と充実していた。テニスが楽しい事以外に西山洋介の姿を見ることが楽しみだった。しかし、見ているだけで話しかける勇気は微塵もなかった。真由は洋介の顔を見ているだけで充分だった。
 洋介の方は真由の存在に気付くことなく、他の女子に声かけることもなく、テニスが上達することに集中していた。
 しかし、ある日を境に、洋介の方が真由の存在を意識するようになった。
 その日、洋介はサーブが決まらず苛立っていた。少し気分転換しようとベンチに体を預け、吸い込まれそうな青い空とボリュームある白い雲を眺めていると少し気持ちも落ち着いた。白い雲が少しずつ形を変えるのをぼんやり見ていると、それが女性の体のように見えてきた。
「ハァー、やっぱり俺もそろそろ彼女がほしいな」と呟いた。
 友達はみんなデートに忙しく、彼女のいない洋介は取り残された気分になっていた。
 冷たさを失った残りわずかなスポーツドリンクを飲み干して、前のコートに視線をやると、熱心にサーブの練習をする真由の姿が視界に入ってきた。普段はおとなしい真由だが、テニスをしている時は別人のようになる。この時も眉間に皺が入り、色白の顔が紅潮し汗が滴り落ちていた。小さくガッツポーズをしたり、腰に手を当て天を仰いだりしている真由の姿を見て、洋介はかっこいいと思った。

 洋介の視線は最初、力強く正確な真由のサーブに釘付けになっていたが、そのうち真由の色白で肉付きのよい太ももへと移ってしまった。真由はそんな視線に気付くことなくサーブに一段と熱が入り、シャツがめくれあがるのも気にしていなかった。すると洋介の視線は太ももから真由のシャツがめくれあがり、たまに見える色白の脇腹に移ってしまった。太陽の光に反射するような白い肌に洋介の視線は釘付けになり、苛ついた気持ちもどこかへ吹っ飛んでしまった。


 ⑤ アルバイトの苦痛

 ファーストフード店でアルバイトを始めた真由だったが、人見知りする真由にとって接客の仕事は簡単ではなく、毎日のように店長から注意を受けていた。
 この日も夕方のピークが過ぎ、店が少し落ちついた時にキッチンから手招きする店長の姿が見えた。真由は、また怒られるんだろうと、うつむきながら店長のところへ向かった。
「はい、何でしょうか」
「はい、何でしょうか、じゃないよ。お客様への挨拶は大きな声でハキハキしろって言ってるよな。さっきもお客さんが聞こえてなくて聞きかえしてたじゃねえか」
「すいません、気を付けます」真由はいつも以上に小さな声になり、うつむいて返事をした。
「今の声だって聞こえないだろ。それに『すいません』じゃなくて『申し訳ございません』だ。うつむいてると表情もわからないんだよ。接客業だぞ、笑顔くらい出せよ」
「申し訳ございません」真由は言い直したが、うつむいたままで声の大きさは小さいままだった。
「ふん」店長は鼻を鳴らし真由を睨み付けた後、背を向け、その場から離れてしまった。


 ⑥ 声をかける

 洋介はテニスサークルで真由の姿を見かけると、サーブに打ち込む姿といっしょに、真由の太ももと脇腹が頭から離れなくなってしまっていた。そして次第に真由を女性として意識し始め、つぶらな瞳と小さい鼻が可愛く魅力的に感じ、まれに見せる笑顔に心を奪われてしまった。その気持ちは、日に日に高まり抑えきれなくなってしまった。もっとあの娘の笑顔が見たい、そう思っていた。
 真由に声をかけることを決意したが、これまで女性に声をかけたことのない洋介にとって、それは一大イベントだった。
 ある晩、深夜まで作戦を考え気持ちも固まった。真っ暗なキッチンに行き冷蔵庫の麦茶をコップ一杯飲んで、ふぅーと息をついた。「明日が勝負だ」そう呟いて布団に入った。目を閉じて何度も何度も作戦を考えていると外は明るくなってしまった。
 次の日、洋介はテニスをほどほどに切り上げ、真由を探した。するとコートから少し離れた所で、軽く素振りをしている真由の姿があった。ゆっくりと近づいて素振りしている真由の後ろに立った。
 洋介は深呼吸して目を閉じた。真由をはじめて見た時のサーブする姿が浮かんでしまった。目をあけて頭を何度も振ってから、そのまま踵を返し、その場から離れてしまった。
 真由が素振りをやめて、振り返った時には、洋介の姿はなかった。一旦、ベンチに腰掛け、汗を拭いスポーツドリンクを一口飲んだ。
 フゥーと息をついて顔を上げると、そこに日に焼けた端正な顔があった。
 真由は驚いて「こ、こんにちは」と小さな声で挨拶をして下を向いた。
「あっ、こんにちは、君、サーブが上手いね」その瞬間洋介は頭が真っ白になってしまった。
 真由は顔を上げ「あ、ありがとうございます」と言ってペコリと頭を下げた。いきなり過ぎて、真由も頭が真っ白になってしまった。
 この後「今から俺にサーブを教えてくれよ」と続け、二人でサーブの練習やラリーをした後、ベンチに腰掛けて、少し会話するのが、洋介が昨晩、考えに考え抜いた作戦だったが……、しかし真由と洋介のはじめての会話は、お互い頭が真っ白になり、一言言葉を発するのが精一杯だった。


 ⑦ 接客チェック

 今日は店舗クリニックの為に本部からトレーナーが来ることになっていた。真由はこんな日に限って出勤かと普段以上に憂鬱になった。
 店長はいつも以上に厳しいんだろうと考えるとお腹が痛くなり、仕事へ向かう足取りも重かった。
「おい、酒井、今日は本部から接客のチェックが入るからな、いつもみたいな接客をしていたら、即帰ってもらうぞ」
 真由は、出勤するなり言われた言葉を聞いて本当に帰りたいと思った。
 アルバイトを辞めたいと思っていたが言い出せなかったので、店長から「帰れ」とか「辞めてしまえ」と言われたら本当にそうしようと思っていた。
 仕事に入り1時間程経った時、スーツ姿の男女二人の姿が見えた。二人は店長と少し会話した後、キッチンや店内を何度も行き来していた。真由はチェックされている事を意識しすぎてしまい、いつも以上に緊張し、声が出なくなってしまった。スーツ姿の男女二人の眉間に皺が入るのを見て、口がカラカラに乾いた。
 1時間程でチェックが終わり、スーツ姿の男の方が、店長と報告書を見ながら話している姿が目に入った。キッチンや店内を、あちこちと指さしながら熱のこもった話をしているようだったが、その時、真由は嫌な予感がした。真由の方を見ながら何やら話しているのがわかったからだ。その後、スーツ姿の男女は、冷たい笑顔を浮かべ、店長に「よろしくお願いしますね」と声を掛け店を後にした。店長はドアに向かい深々と頭を下げた後振り返った。店長の顔が険しくなっているのがわかった。
「あー、やっぱり酒井のせいで、うちの接客の点数はよくないな」
 店長は真由に聞こえるように声を張り上げ、スーツ姿から受け取った報告書を見て頭を掻いた。
 「やっぱり、あたしのせいだ」と真由は首をすくめてうつむいた。



 ⑧ 発展しない恋心

 真由はテニスサークルでテニス以外にも楽しみが出来た。テニスの合間に洋介と過ごす数分間は真由にとって、ときめきの時間になっていた。
 それは洋介も同じだった。はじめての会話から真由の姿を探し出しては声を掛けた。いきなり作戦通りにいかなかったが、少しずつ作戦通りに進んでいった。名前を聞きだしお互いの生年月日もわかった。
「西山さんが、あたしと同じ歳だと思いませんでした。先輩だと思ってました」
「俺ってそんなに老けてるかな」洋介は手で頬の辺りをさすりながら言った。
「違います違います、落ち着いて見えるんです」真由は右手を何度も振りながら否定した。
 二人は少しずつ会話に慣れてきたようだったが……、
「酒井さんは、普段はおしとやかで可愛いのにテニスしている姿はかっこいいよ」
 洋介は告白するくらい勇気を出した言葉だった。真由は自分を褒めてくれた言葉に顔を紅潮させ、どう返してよいかわからなくなり、うつむいてしまった。洋介も会話が続けられなかったので、やむなくテニスの話題に切り替えたが、テニスの話題で盛り上げられるほどの余裕はなかった。

 洋介の作戦では、洋介の言葉に対して真由から
「有難うございます。お世辞でも嬉しいです」と返ってきて
「お世辞じゃないよ、俺このままだと酒井さんに惚れてしまいそうなんだよ」と洋介が言って
「本当なら嬉しいです」と真由から返ってきて
「じゃあ本当に惚れてしまうことにするよ」
 そんな感じで洋介は昨晩も外が明るくなるまで色々と作戦を考えていたようだったが……、今の洋介には簡単な事ではなかった。


 ⑨ 救いの手

 先日の店舗クリニックの件で、真由は店長室に呼ばれていた。
「これまで、この店の接客の点数は悪くなかったんだけど、今回はこれだよ」
 店長が報告書を真由の眼前に広げた。
「あっ、はい」
 真由は、うつむいたまま報告書を見ないで小さく返事した。
「しっかり報告書見て反省してくれよ。ここだよ、ここ」
 店長が報告書を人差し指で叩くように指した。真由は店長の指す箇所に視線をやった。

『挨拶の声が小さくお客様に届いていません。笑顔もなくお客様を見ないで挨拶しているスタッフがいます。店長はしっかり教育するようにして下さい』そう書いてあった。

「これは間違いなく、酒井、お前のことだぞ。店長はしっかり教育するようにって書いてあるけど、俺は何度も注意したぞ。お前が変わらないから、こんな事書かれたんだよ」
 店長は報告書をグシャグシャに丸めてゴミ箱に投げつけた。
「申し訳ございません」真由は立ち上がり頭を下げた。
 店長は「ふん」と鼻を鳴らして、手のひらで払うような仕草をした。真由はもう一度深々と頭を下げたら涙がポツリと床に落ちた。左手で目をおさえ、そのまま店長室から出ていった。しばらくハンカチで目頭をおさえ店長室の前に立っていた。やっぱり辞めるべきだ、それを伝えに店長室のドアをノックしようとした時、背後から張りのある声が聞こえた。
「元気出しましょ」アルバイトの先輩の西山貴子だった。
 真由が顔を上げると貴子と目が合った。貴子の顔を見て、心地よい笑顔って、こういうのを言うんだろうなと思った。
 貴子は真由の2つ歳上で、いつも仕事をテキパキとこなし笑顔を絶やさない。細くて背が高く、二重瞼で黒い瞳、整った眉、黒く長い髪の貴子を見て、真由はモデルのようで羨ましいと思った。
「酒井さんは仕事を覚えるのは早いし、ミスもしないから落ち込まないで。もっと自信を持ってやれば接客も上手くなるわよ」
「あっ、は、はい、あ、ありがとうございます」真由は少し言葉をつまらせながら礼を言った。
「下を向かないで自信を持って笑顔出せばいいの。もっと仕事を楽しんだらいいの。店長に怒られて堅くなってるから、もっとリラックスしてみて」
「は、はい、頑張ります」
「じゃあ、明日からもよろしくね、辞めたくなったり悩みがあったら何でも言って、少しは先輩なんだから相談にのるわ。あっ、でも恋愛の相談はダメだから、あたし、そういうの苦手だからね」
 そう言って、貴子は舌を出した。真由はアルバイト先で、はじめて本当の笑顔が出た。
「それそれ、その笑顔」
 貴子は、そう言って手を振りながら帰っていった。
 真由は、アルバイト先では一人で苦しんでいたが助けてくれる人がいる事に少しだけ仕事を続ける勇気が湧いた。


 ⑩ 恋のライバル出現

「酒井さんはテニス以外に趣味とかあるの」洋介は今日もテニスの合間に真由の姿を探して声を掛けた。
「音楽を聴くのが好きです。最近はZARDの『負けないで』が大好きで、あの曲を聴くと元気になれるんです」
「いい曲だよな、俺も好きだよ」
 洋介は嘘をついた。姉から『負けないで』は、いい曲だと聞いたことはあったが、どんな曲かは知らなかった。
「ほんと、いい曲ですよね。西山さんも好きで良かったです」真由の小さな瞳が輝いた。
「あっ……うん、ところでJリーグが開幕したけどサッカーには興味ないの」
 洋介は『負けないで』の話題から変えようと慌てた。
「ごめんなさい、スポーツはテニスしか興味ないんです」
「サッカーもテニスと同じくらいに面白いよ」
「そうなんですか……」と真由は返したが、もう少し『負けないで』の話題がしたいと思っていたので、いつも以上に声が小さくなった。
「うん……、面白いよ」洋介の声も小さくなった。
 そこで会話は途絶えた。洋介は会話を続けようと思ったが『負けないで』の話題に戻ったらいけないと思うと続けることが出来なかった。正直に『負けないで』は知らないと言えばよかったと悔やんだ。
「じゃあ、また」洋介は右手を上げ、真由はペコリと頭を下げた。
 洋介は『負けないで』という曲を姉に聴かせてもらおうと、真由はJリーグを一度テレビで観戦してみようと、それぞれ思いながら帰っていった。

 お互い、テニスサークル以外の場所で、ゆっくりと同じ時間を過ごしてみたいと思っていたが、言い出すことはなかった。洋介はコンサートやサッカーの観戦に誘う勇気は、まだなかった。

 真由がテニスサークルを出て駅に向かって歩いていると彩花が後ろから近付いてきた。
「真由~、久しぶりだね」
「あっ彩花、ほんと、久しぶり元気だった。彼氏が出来たってきいたけど」
「ダメ~、別れちゃった」
 彩花は人差し指を交差して×して見せた。
「そうなんだ、残念ね」
「いいの、いいの、あたし束縛されるのが無理みたいだからね。ところで真由、さっき西山くんと仲良く話してたけど、付き合ってるの」
 彩花は大きな目を一段と大きく見開いた。
「ちがう、ちがう、たまにサークルで話すだけよ」
 真由は顔を真っ赤にして、右手を何度も横に振った。
「そっかー、真由は西山くんを狙ってるわけね」
「そんなんじゃないよ、ちょっと話すようになっただけで狙ってなんかいないよ」
 本当は、洋介と付き合いたい気持ちを相談したかったが、真由は言えなかった。
「それなら、あたしに西山くん紹介してくれない。前から彼に興味あったんだぁ。でも、彼クールすぎて、さすがのあたしも声掛けにくかったんだよね。だから、ねっお願い」
 彩花が真由に向かって手を合わせた。
「えっ、う、うん、わかった」
 真由はうつむきながら小さく頷いた。真由は、洋介に彩花を紹介したら、きっと洋介は彩花を気に入ってしまうんだろうなと思った。彩花は可愛いし積極的だから、きっとうまくいくんだろうなと思った。
「じゃあ、来週のサークルの時に、お願い」

 彩花は真由の肩に手をやって微笑んだ。真由の肩は心なしか落ちた。


 ⑪ 西山結花

 西山結花は、学校が休みだったので朝からアルバイトに入り、疲れた様子で帰ってきた。
「お母さん、ただいま~」
「おかえりなさい、疲れてるわね」
「今日は朝からバイトだったしバテバテ。新人の女の子教えてたから余計に疲れた。もっとしっかりしてくれたら楽なんだけどね、教えてるとイライラしちゃって、ハァー」
 結花はソファに体を預け、ため息をついた。
「新人の子も一生懸命だと思うよ、優しく見守ってあげなさい」
「それは、わかってるんだけどね、ついイラついて、きつく当たっちゃうのよ。後で反省するんだけど、自己嫌悪になって一段と疲れるわ」
 結花は、そう言って立ち上がり冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出した。
「あなたにも新人の頃があったでしょ、その頃のこと思い出してみなさい」
「まぁね、あたしも最初はよく失敗したなぁ、先輩に助けてもらってばっかりだったわ」そう言って、またソファに体を預けた。
「お母さんも学生の頃、アルバイト先で先輩に助けてもらったわ、良い先輩だったな。あの先輩のおかげでお母さんの今があるし、あなたがここにいるの」
「そんな~、お母さん大袈裟~」
 結花はそう言って、帰りにファーストフード店で買ってきたドーナツを取り出した。
「大袈裟じゃないわよ、本当に今があるのは、あの先輩のおかげ、結婚出来たのも、あの先輩のおかげ。それよりあなた夕食前よ、ドーナツなんか食べて太っても知らないわよ」
「大丈夫、大丈夫、お母さんと違ってあたしは太らない体質だから」
 結花はシャツをめくり上げ、サッカーで鍛えた浅黒く引き締まった腹筋を右手で叩いた。
「太ってて悪かったわね」
「ごめんごめん、お母さんは色が白いし肌がきれいで女性らしくて羨ましいよ。あたしはお父さんに似ちゃったんだろうね」
 結花はドーナツの最後のひとかけを口に運んで、キッチンの方に向かって言った。
「結花はお父さんより若い頃のお義姉さんにそっくりだわ」キッチンから声が返ってきた。
「あたしが叔母さんに」
「そう、よく似てるわ。でもお義姉さんは、結花の歳の頃でも、もっと落ち着いてたし正義感があって、カッコ良かった」
 キッチンから出てきた西山真由は昔を懐かしむように言った。
「お母さんは結婚する前から叔母さんと知り合いだったの」
「偶然、お父さんと同じ時期に知り合ったかな。学生の頃、いろいろと助けてもらった。お義姉さんは恋愛の相談は乗らないって言ってたけど、結局恋愛も助けてもらったわ。お父さんもお母さんもグズグズしてたからね」
「じゃあ、叔母さんが恋のキューピットってわけか」
「そういうことかな」
「叔母さんに感謝だね」
「そうね、でも、お義兄さんとお義姉さんが付き合うきっかけは、お母さんだったのよ」
「えーっ、お母さんが叔父さんと叔母さんの恋のキューピットなの。お母さんはそんなタイプじゃないでしょ」
「お母さんがくっつけたわけじゃないけどね、お母さんがいたから二人がよく話すようになったのかな」
「へぇーそうなんだ。お母さんは、その頃から叔父さんとも仲良かったんだ」
「お義兄さんは最初、怖くて苦手だったのよ。でもね本当は優しい人だった。それもお義姉さんのおかげでわかったわ」
「叔父さんが怖いのが想像出来ない」
「そうね、今思えばね。お義兄さんも当時は仕事が大変だったからね。人は出会いや環境、心次第で幸せにもなるし不幸にもなるんだなと思った。結花は今の新人さんや、これから出会う人をお義姉さんのように幸せにしてあげてね」
「うん、努力してみるわ。ところでお母さんは、今は幸せなの?」
「あなたやお父さん、お義姉さん、みんなのおかげでね」



          完

 


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